昭和42年02月10日 朝のご理解



 お道の信心の助かりということ。お道の信心によって助かるということはどういうようなことかと、例えば、いうような、質問を、皆さんが受けられたら、どう答えられるでしょうか。お取次ぎをお願いして助けて頂く。これだったら、これは、金光様の信心ではなくても、そんな意味のことが言えると思うですね。一生懸命におすがりして助けて貰うたとこういうだけであったら。
 お道の信心の助かりというのは、それではないと思う。これはね昨日、一昨日でしたか、学院からあの本部から、私のとこの検定試験のことについて、試験を受けられるという通知が参りました。それにこの試験の参考資料としてから、こういう沢山な、ものが送ってまいりました。この中から試験がだいたい出るらしい。社会以外の、社会はもうその時その時変わるらしいですけども。
 これだけは覚えてしもうとけば、だいたいが合格するわけ。沢山の事です大変でも私が貰ったもんの中に、入りそうのないことでございますけども、これがそのただお取次ぎとか、お取次ぎの実際と言ったようなことは、まこうやっておかげを頂いておりますから出来ますけども、それをいろいろなそのとにかく三日間に渡って試験があります。それにもう毎日四科目ずつぐらい様々なその、いわゆる学科がございます。
 教学的にまたは教祖伝のこと何かが、、大変いろいろお話は出来ても、なかなか文章に例えば表すということは、大変難しいことだということを実感した訳ですけれども。その中にあったわけです。金光教の助かりとはどういうことかという訳なんです。だからようするにその試験問題なんですよ。これはま朝から私が分からせて頂いたことなんですけれども、金光教の助かりとはというところを見ると。
 天理教の助かりとか、仏教での助かりとは違う訳なんです。独特のものなんです。そりゃあぁた助けて、金光教の助かりち言うのは、例えば病人が、ようならして貰うたり、人間関係で困っておる、金銭のお繰り合わせを頂けずに難儀をしておるとが、それをお繰り合わせ頂くということが助かることでしょうもん、だけではそのそれはもう合格じゃないわけです。また事実私はそうだと思う
 。金光教の助かりとはそういうものじゃない。それも助かりじゃないとは言えない。皆さんが、やっぱ、おかげを受けて、助かっておられるのですから。けども、天地の親神様の願いとされた助かりというのは、そうではない。どうぞ氏子、信心しておかげを受けてくれよと、と仰るけども、信心して、ほんなら、おかげを受けるということだけが助かりじゃない。信心してということ。
 そこで私共がお道の信心の助かり振り、と言う事になっておるかと言う事を、思うてみなければいけませんですね。丁度まあ言うならば、お天気の良い日にこう雨雲が出てまいります。とそこにそれこそえも言われぬような七色の橋が出来る様に、いわゆる虹が出来ます様に、金光様のご信心とはそう言う様な、私はものだと思うんです。思いもかけないもう口、葉には表現できない、有り難いおかげになって現れて来るのです。
 それとこれとが一つになる時に。これが頑張ったから、これがどうしたからって言うのじゃなくて、そこに、いわゆる、あいよかけよの働き合いの中からです、ちょうどそれは、雨雲と、お天気の中からです、あの、見事な七色の虹が出来るようにです。もう、なんともかんとも、言葉には表現出来ない。本当にそういう神様の働きを、私どもが感じさせて頂くような助かり。
 昨夜私共の妹の連れ合いであります、正と申しておりましたが亡くなりましてから、丁度まる20年になります。20年の式年祭を昨日私奉仕させて貰いました。親子の者がもう一生懸命のいわば真心で、このお祭りをそして考えてみますとよう本当に、私は妹は自分の妹の事を言うと可笑しいけどえらいなあと思いました。本当にあの今幼稚園の保母をしております姪がもう生まれると間もなくで御座いました、亡くなりました。
 20年間それこそ様々な意味で、難儀を感じたことであろうと思います。子供一人にその願いをかけての20年間。もう十年一昔と言いますけども、本当に昨日も妹がお届けしとりましたが本当に20年間と言う間、夢のように過ごさせて頂いたと。そして親子でその式年のお祭りを奉仕させて頂くということが、有難いというておりますが。本当にこのお道の信心は真心一つでと、いうことを言われますけれども。
 先祖の助かりということはどんなに、例えば先祖が徳を受けておられるというてもです、その遺族が続かなかったらもう先祖もないです。先祖の助かりと残された遺族の者の助かり合いというものがなからなければ、どんなに御霊様が徳を受けてござるというてもです、遺族の者が神も仏もあるものかと言ったら、それでおしまいなんです。徳を受けてござる受け物が大きい、受け物が立派であると。
 それに遺族の者の真心のというものがあって、御霊は御霊としての身の守り家の守りが、お出来になるのであり。遺族の者の真心が御霊の位もいよいよ進み天かけり国かけりの働きをお出来に成る様になるのであり、その働きがあっとっても受けるものがなからなければ出来ません。これは双方から言えることなんです。昨日お祭りの半ばに頂きましたことですけどもそれはもう見事な、何かいわゆる受け物という感じですね。
 きれいに研き上げられたような、その受け物を幾つも頂くんです。本当にこのお祭りの真心というものを、御霊が受けられるんだと。けどもも、こういう受け物は用意しておっても、もしこのお祭りがなかったら、遺族の者が真心を持って奉仕しなかったら、御霊様は、立派な受け物を持っておるというだけで、それこそ何にも御霊様に喜んで頂くことも、いわゆる御霊様ががっかりであっただろうとこう思うのでございます。
 今度は反対に御霊様がです、子供のために子孫のために、力を持って働こうとなさってもです、こちらが神も仏もあるもんかというように、その受け物もなんも準備しなかったら、その働きかけというものがありません。御霊と遺族ということであってですらが、そうでございますから、天地の親神様においては、なおさらのことなんです。神も仏もあるもんかという者の上には、どんなに働きがあっとっても、おかげとも感じらなければ、それを、またおかげをおかげとして、頂くこともできない。
 神を神と用いてくれとこう仰る。私共が神様を神様として用いさせてもらうところにです、神様の働きがある頂けるのです。神を神と用いてくれる。そこに神様が氏子を氏子としてに用いて下さる訳なんです。いわゆるあいよかけよというのはそう言う事なんです。神を神と用いてくれると言う所にです、お道の信心はある。ただ自分の事を神様を用いるということはです、神様を使うだけという意味じゃないです。
 言うなら、神を神と立ててくれるという意味なんです。親を親として立ててくれるということなんです。主人を主人として立ててくれるということだ。親が子供のために、奉仕するのが、もう当たり前じゃないかと。親が子を育てるのは当たり前じゃないかと。と、いうような考え方ではなくてです。子供が親を親と立ててくれるところにです、親子の助かりがあるのです。
 先祖を先祖として、後に残された子孫のものが、先祖を立てていくところに、御霊と残された者との、その働き合いというものが生じて、ほんならそこに言うならば虹のようなものが、期せずし、そこに生まれてくるのを、お道の信心でいう助かりというのであり、おかげでというのであるとこう私は思うのです。お道の信心の助かりというのは、そういうこと。神を神と用い。
 いわゆる神も助かり、神様も助かってくださり、氏子も助からせて頂けると言う事。いわゆる氏子の助かりは神の助かりであり、神様の助かりは私共の助かりであるという。だから自分の助かりというものがそのまま、神様の助かりにつながっておるかどうかということ。例えて言うならば、一番身近なことで言うならばですね。ご造営のことなんかでも申し上げられます。
 自分の助かりということがです、自分がおかげを受けておるということがです、ご造営につながっておるということなんです。いわゆる、私が金ば儲けさえすりゃよかというのが、普通で言う助かりのようにあるですけれどもね。それでは、お道の信心の、いわば、独特な助かり方になってこない。限りなく続いていくとこのおかげになってこない。お願いをしておかげを頂いた。
 なるほど、そういうおかげも頂けておるけれども、それでは、お道の信心の助かりとは言えないと。病気をしておった人が助けて頂いた。その、助かりというものがです、次には、神様に喜んで頂く、その働きということにつながっておらなければ。ただ、助けて貰うた、それで消えたんでは駄目なんです。そういう助かり方をしておる人も、お道の信心でたくさんありますよ。
 けど、それでは、お道の信心で言うところの、助かりという答えにはならないということ。私が、おかげを頂いて助けて頂きました。その助かりがです、神様に喜んで頂く奉仕につながっておらなければ。おかげで毎日お商売ならお商売の上に、特別な繁盛のおかげを頂いて、大繁盛のおかげを頂いておりますということがです、その大繁盛がですなら今の椛目の方達で言うならば、ご造営につながっておらなければです。
 本当の助かりではないということです。そこにつながっていく所からです、是は予期しない自分が思うてもなかった、夢の様なというおかげが現れてくるのです。その助かったというだけじゃない、儲かったというだけじゃない、この問題が解決したというおかげだけじゃない。そのおかげがです、例えばほんならご造営ならご造営につながっておると、神様のお喜び頂ける様な働きにつながっておるという。
 そこにです雨雲とお天気の中に、でなからなければ現れないところの虹が、現れるようにですえも言われない、天地自然の働きのそれこそ微妙なこと。不可思議極まるような、働きというものが。いわばそれこそ夢にも思わなかったようなおかげというのが、そこから新たに生まれてくるのです、そういう働き合いが。ここのところの助かりを味あわせてもらうというのがお道の信心の、私は味わいなのだと思う。
 皆さんがお願いをなさって、助けて頂いたと。それはそれだけのこと。後にはつながっていないでしょうが。限りなく、そこのところのですね、いわば、働き合いというものがです、神と氏子が働き合いの中から、予期しないもの、もう計算づくのものじゃないです。こうしてこうすりゃああなるという答えがないです。そういう、私は働き合いというものが起こってくるのです。
 そういうおかげを、私はお道の信心で言うところの、助かりということになる。皆さんここで一つ、そのそういう勉強をでけた訳ですね今朝は。お願いをして助けて頂くということだけが、ただあの助かりにそれは助かりに違いないけども、お道で言うところの助かりということではないということですそれは。私はもしその問題が出たなら、今日皆さんにお話したようなことを、書かせて頂こうと思う。
 お道の信心で助かるとはどういうことかと。そりゃ助かることですよということだけでは、いかん訳なんです。そりゃおかげ頂くことですよだけでは、お道の信心の助かりにはならんのです。その私の助かりそのものがです、神様の例えば私が本当に難儀苦労しておった。おかげで助けて頂いた。その助けて頂いたその助けて頂いた余力がです、皆さんが助かることにつながっておる。
 皆さんが助かることにつながっておるということはです、神様が喜んでくださることであると同時に、神様が助かって下さるのと同じ事の働き合いと言う、そういう、助かり方なんです。皆さんが助かったなら、皆さんの周囲の人も助かっていかなきゃいけんのですよ。そういう、助かり。自分のおかげを受けたことを実意丁寧に人へ伝えていくのが、神へのお礼ぞと。それが神になるのぞとまで仰っておられる。
 そういう助かりでなからなければいけない。助かりというものを、自分ひとり占めするといったようなものでは、それは、もう、そのままのもの、それだけのもの。それこそ、夢にも思わなかったというような、おかげに進展していかないということ。お道の信心で言う助かりとは、そういうような助かり。果たして、自分の助かり方がです、そういうような。例えば椛目で言うならば、ご造営につながっておるかどうかということを、今の椛目の人達は思わなければいけないと思うですね。
 そこんところの、出来ていくことによってです。これは私共が予期しない思いもかけないものが、そこから、生みなされていく。新しいおかげが、展開してくる訳です。そのおかげをもって、お道の信心で言うところのおかげと言うのではないかと、私は思うのです。私はそうだと確信いたします。そこんところを、皆さんは、一つ考えて、これからとても、いよいよ助かっていかなければならんと思うのです。
   どうぞ。